日本のミュージアムショップ、ミュージアムグッズの誕生とその背景など (1) <2回にわけて、掲載>

日本のミュージアムショップ、ミュージアムグッズの誕生とその背景など (1)

                          山下治子   

よく、一世代30年といわれる。

ミュージアムはいくつもの世代にわたって遺産を引き継ぎ、後世に伝える場であり、そういう仕組みや理念を持つものとされているが、そんなミュージアムにおいても、この30年の間にさまざまな変化、変容がはっきり見て取れる。特にミュージアショップやグッズについては著しい。かつては、構想、設計の段階で「付帯施設」と扱われ、その名前からして軽く扱われていた存在である。しかし、利用者にとっては大切なものだった。それはだんだんと市民権を得てゆく。例えば、20歳前後の若者に「あなたがたが生まれたころ、日本のミュージアムにミュージアムショップがあまりなかったのよ」と話すと目を丸くして驚く。彼ら、彼女らにとって、ミュージアムにショップやオリジナルのグッズがあることは、ごく普通、当たり前の存在になっているのである。

さて、私が編集長として世に出された「月刊ミュゼ」が生まれたのは平成6(1994)年である(写真1)。当初は、A4判8ページながらキャッチコピーに「ミュージアム・ショップとグッズをクリエイトする人の専門誌」と堂々と掲げている。今でもミュージアムにとって、ショップやそこにあるグッズ、特にオリジナルグッズはミュージアムでの体験や学びを深めるツールであり、展示室では得られないコミュニケーションを育む場であると信じて疑わない。もちろん、収益面で経営に貢献する存在でもある。30年には少し満たないが、若い読者もいることを想定して、ここでは私が体験してきたことを振り返りながら日本におけるミュージアムショップの誕生、その背景、課題、今後の展望を記してみたい。

 

バブル景気のころにあったミュージアムグッズブーム

時は少しくだるが、個人的なミュージアムショップやグッズとの関わりを振り返ってみたい。1980年代初めのころ、私は大学生で考古学を専攻していたこともあり、博物館学を学んだ。当時は「博物館学」の黎明期だったのだろう、担当する教授たちの熱のこもった語りに学芸員という仕事や博物館とはなんと輝かしいものだろうと心踊ったものだった。しかし、その後、社会に出てフリーライターとなり、改めて博物館や美術館を訪れ、同輩も含め学芸員の方々に接してみると、そこには溌溂としたミュージアム像というにはほど遠い、利用者に対して扉を閉じているような空間と閉塞的な組織像が感じられ、落胆を覚えた。

一方、時は1980年代半ば、バブル経済のただなかでもあった。景気がよく(私はあまり感じなかったが)、人々は目新しいものに飛びつき、円高もあり、格安チケットも登場して海外旅行が身近になっていった。すると、人々はなぜか国内では足を運ばなかったミュージアム、つまりルーブル美術館や大英博物館、メトロポリタン美術館などを観光する。そうして、驚くのだ! なんと、海外の博物館や美術館にはミュージアムショップやミュージアムグッズが当たり前のようにあり、さらには気軽なカフェや素敵なレストランもあって展示や空間をさらに満喫できるではないかと。やがてそれらが雑誌の特集記事などによって報じられ、さらに情報は広まり、新しい商材を求めていた都内の百貨店ではミュージアムグッズを扱うコーナーを作り、アートグッズや大英博物館のグッズなどを販売するなどし、海外のアンティークものも含めた雑貨ブームも起きていった。昭和63(1988)年ごろから平成2(1990)年ごろにかけて、ミュージアムショップ、グッズブームが起きていたのである。ただ、一般の人々にとっては、そのブームが高まるほどに、なぜ日本のミュージアムには利用者が楽しめるような本格的なミュージアムショップやカフェやレストランがないのかという素朴な疑問も同時に抱きはじめたはずである。言い換えれば、それだけ当時の日本のミュージアムは旧態依然の「お宝をみせてやる」的な姿勢が強かったといえよう。とはいえ、首都圏の民間立の美術館、根津美術館や原美術館などはミュージアムショップを作り、オリジナルグッズを販売するミュージアムも

少しずつ増えていった。

 

そのような折の平成2年、東京・上野の東京国立博物館の地下に約600㎡という広いミュージアムショップがオープンした。国宝展に合わせたもので、「お堅い博物館に本格的なミュージアムショップができた」とブームはさらに盛り上がった。しかし、その数年後にバブル経済が崩壊し、百貨店のミュージアムグッズコーナーは次々に閉鎖に追い込まれ、マスコミを賑わせたミュージアムグッズブームはしぼむ。ただ、一旦、火がついたミュージアムショップやグッズについての人々の興味と関心はしぼむことはなかった。さらに皮肉なことに1980年代はバブル経済崩壊の前から計画されていたミュージアムが次々にオープンし、第3のミュージアムブームとも呼ばれたのである。ミュージアムショップやグッズは堅い・暗い・カビ臭いといわれたミュージアムから“開かれた親しみやすいミュージアム”への一翼とも期待され、収益のためのショップやグッズではなく「利用者サービス」としての強化を新しいミュージアム像として掲げ始めた。そうして、ミュージアムショップに真剣に取り組むところも増えていった。1990年代半ばころから、地方の公立館にもショップができていったが、民間立のミュージアムと違って、国公立の場合にミュージアムショップを直営で経営する仕組みが整っていなかった。まず、売上はミュージアムにではなく公庫に収めなくてはならない、ましてや収益を得るのは公立としておかしいのではないかと配慮したり、さらに当たり前だが担当する公務員たちにミュージアムショップ経営という考えとノウハウがなかったり。たとえ、テナントに入ってもらったとしても事例が少ないことから、ミュージアムショップのコンセプトそのものが明確でなかったり、それゆえ品揃えが観光物産の目立つ土産物店のようになってしまったり、オリジナルグッズも魅力的でなかったり、そもそもミュージアムの場所が不便なところにあって集客が少ない、ショップの位置が見えにくい建築設計になっているとか、ショップの経営努力だけではどうしようもない要因があって、成功事例がなかなか出ない状況が続いた。

 

しかし、そのようななか平成6 年、平成7(1995)年、平成10(1998)年と業界誌としてミュージアムの施設化計画、ミュージアムショップの経営戦略、ミュージアムショップ白書といった資料集が出版されている。そこには大学の博物館学関係者や展示会社関係者、マーケティング専門家ら、そして私も執筆に当たっている。また、丹青研究所が発行する当時「Museum Data」には、海外のミュージアムショップや国内のミュージアムショップの現状についての記事が組まれ、アメリカの博物館協会におけるミュージアムストア倫理規定についても紹介されている。市場としては、ミュージアムショップやグッズの発展に希望を寄せていたのである。ちなみに、少し時を経た平成12(2000)年、取材などをまとめた拙著『ミュージアムショップに行こう 〜そのジャーナリスティック紀行』も出版された(注と写真 )。

 

「開かれた親しみやすい博物館へ」という合言葉もよく用いられた頃である。裏返せば、閉じた、お高くとまった博物館が多かったということだろう。ミュージアムショップやグッズがその一端を担う機能があると多くの関係者が想いを寄せたのは事実であった。しかし、それらを現場で実現するには、まずはミュージアムショップやグッズの存在を利用者や来館者らに知らしめ、さらに魅力的なオリジナルグッズを作り、そうしてショップ経営をどのようにどうやっていけばよいのかなどいくつもの壁があった。さまざまな試行錯誤がなされ、2000年代に入ってからそれぞれのミュージアムの個性に見合った、考えられたミュージアムショップが少しずつ誕生していく。

 

(写真の注)

「美術手帖 1993.4」特集 世界のミュージアムグッズ

『ミュージアム(テーマ館・展示館)施設化計画と事業運営資料集』(綜合ユニコム・1994)

『ミュージアムショップの経営戦略・グッズ開発資料集』(綜合ユニコム・1996)

『ミュージアムショップ白書 ‘98』(ビジネスガイド社・1998)

『新版 ミュージアム(テーマ館・展示館)施設化計画と事業運営資料集』(綜合ユニコム・1999)

『ミュージアムショップに行こう そのジャーナリスティック紀行』(ミュゼ・絶版、2000)

「博物館研究」VOL.57 NO.9 令和4年89月25日発行

拙稿「日本のミュージアムショップ、グッズの誕生とその背景、課題、今後への望み」より、抜粋、転載